セブジーの雑な映画感想

セブジーの映画への思考、料理を吐露する無法地帯

“インターステラー”を見て

※ネタバレあり。

   映画を御覧になった方向けの内容です。

 

[今回紹介する映画]

 

インターステラー

        ≪Interstellar≫

 

監督 クリストファー=ノーラン

 

脚本 クリストファー=ノーラン

        ジョナサン=ノーラン

   

主な出演者 

・ジョセフ=クーパー 

        →マシュー=マコノヒー

アメリア=ブランド 

        →アン=ハサウェイ

・マーフィー・クーパー /

        →ジェシカ=チャステイン

            マッケンジー=フォイ

            エレン=バースティン

・トム・クーパー

        →ケイシー=アフレック

            ティモシー=シャラメ

 

 この映画のポスターの1つを見ると、父と娘らしき2人が空を見上げる様子が映されている。  

 

 僕らは俳優やCMやポスター、プロモーションの印象で映画館に赴く。見終わったあと、その印象を超えたか否かを確かめるのをしたりする。悪ければ無くした1800円を嘆くし、よければ自らのセンスに自惚れたりする。

 この映画は容易くその印象を超える。

 クリストファーノーラン監督の「ダークナイト」「インセプション」「メメント」などをあげても、彼の映画は見る前の印象の遥か上のエンディングへと我々を道連れにする。

 しかし、その見る前、見た後の印象が我々の映画に対する視線をある一定のところへ縛り付けてしまうことがある。

 最後クーパーは年老いた娘マーフと再会し、その後に、仲間を探しに宇宙船に乗るところで終わる。クリストファーノーラン監督特有のエンディング演出により、インターステラーのポスターの印象通り、映画が終わると、父と娘の物語、父と娘の愛の話にとれる。

 しかし、父と息子の話とも見ることができる。息子トムは大学進学をあえなく諦め、生きるためにトウモロコシ畑の中に職を置いた。父は宇宙へと旅立つ前、彼の大学進学を望んでいたし、そうしようと裏で働こうとしたのは、父の愛だといえるし、宇宙行きを否定もせず見送ったのは息子の愛である。父と娘に着目すると、その2人に映画は時間をかけているから、父と息子との間の愛を見抜きにくかった。でも父は息子を愛していたし、息子も父を愛していた。それは、宇宙船に送られてくるビデオメッセージでもよくわかる。彼は「父さんのことを諦めるよ」とビデオメッセージ言ったが、本当に諦めていたら、送りはしない。

 インターステラー(Interstellar)とは、「惑星間」という意味である。いわば宇宙空間の真空を指す。ダークマターブラックホールなどを物体とするかは分からないが、何もない、何も見えないところとも見える。

愛とは観測可能な何か、というセリフがあったが、五次元の世界同様、その正体は未だ未知として終わっている。何なのか、見えないものなのである。ただ、存在している。そんなものが父と子供の遠い距離を結いでいた。

トムの最後はわからない。もしかするとマーフの作り出したステーションに乗ったのかもしれないし、地球で最後を迎えたのかもしれない。

娘は科学を愛した父の面に見習い、地球脱出の方程式を見出した一方、息子は農夫としての父を見習い生きていた。存在が見えなくなったあとも2人とも父と歩んだ人生だったのだ。

 

 

余談だが、冒頭、クーパーの墜落の悪夢のシーンがある。制服がエンディングのものに似てないか?と考えると、最初と最後は繋がっているともとれる。クーパーの未来を地球にいるときからなぜか夢の中で予測していた、なんていいかたもできるし、クーパーはアンハサウェイを迎えにいくもう直前に迫っているという意味にとれる、つまり、視聴者に託されたアンハサウェイ救出に関する空白に対し、監督自らヒントを与えていることになる。まあ、これは、まだ未知の域を出ないが。

もう一つ、クーパーが五次元にたどり着いた時、TARSはクーパーが言っていないのに、マーフにモールス信号を送ったことを知っていた。よく知っているのを見れば五次元を呼び寄せたのはTARSではないか?と考える。理由はわからないが。そして、TARSを作ったのは人間である。五次元を呼び寄せたのは俺たちだというクーパーのセリフにもガッテンする。これもただの推測だ。