セブジーの雑な映画感想

セブジーの映画への思考、料理を吐露する無法地帯

「メリー•ポピンズ」を見て

•ネタバレがあります。

映画を見た方向けの文章です。

またクソ長い上、どうでもいいことを

ダラダラ述べているだけなので

見なくて正解です。

 

 

「メリー•ポピンズ」”Mary Poppins”

監督
ロバート・スティーヴンソン (実写)
ハミルトン・S・ラスク (アニメ)

 

脚本
ビル・ウォルシュ
ドン・ダグラディ

 

製作
ウォルト・ディズニー
ロイ・O・ディズニー

 

音楽
アーウィン・コスタル

 

主な出演者

メリー・ポピンズ
ジュリー・アンドリュース

 

バート
ディック・ヴァン・ダイク

 

ジョージ・バンクス
→デヴィッド・トムリンソン

 

ウィニフレッド・バンクス
→グリニス・ジョンズ

 

ジェーン・カロライン・バンクス
→カレン・ドートリス

マイケル・バンクス
→マシュウ・ガーバー

 

 

 

 

 

最近、「メリーポピンズ リターンズ」が

公開されていることを受けて、

サウンドオブミュージック“などの

ジュリー=アンドリュースさんが主演を務めた

ディズニーの「メリーポピンズ」を見直した。ここではその第1作に関する感想を述べる。

 

「メリーポピンズ リターンズ」に関して、

未だ視聴はしていないが、

プラダを着た悪魔”が好きな故

エミリー=ブラントさんが気になるし、

純粋に見たいと考えている。

しかし、「メリーポピンズ」に関して続編は

要らない、というスタンスがいまのところ

自分の中にあることを添える。

「メリーポピンズ」の製作秘話を描いた同じくディズニー製作の「ウォルトディズニーの約束」を見ると、果たして既に亡くなっている原作者PLトラヴァースはこの続編を許したか、もしくは映画の内容をどう捉えたかという点が気がかりだし、また「メリーポピンズ」は既に一つで完成しているものではないかと考えるからだ。

実際原作の本は続編は書かれているものの、

果たして「メリーポピンズ リターンズ」はどういう位置付けで製作されたのか。

「メリーポピンズ」「ウォルトディズニーの約束」と順にメリーポピンズ関連作品の感想を述べたのち、「メリーポピンズ リターンズ」の感想をレンタル作品で出た頃に述べてゆくいわば長期的な感想シリーズになる予定です。

今みろよ、という話があるかもしれませんが、近隣の映画館が吹き替え版しか上映しておらず、

(先に字幕版を見ておきたいというこだわりであって、平原綾香さんの吹き替え版は見たい。)

メリーポピンズをじっくり見返してからがいいと踏み込んだためまだ見てません。

それでは感想です。

 

 メリーポピンズとは一体誰なのか。彼女が使う魔力は一体何のために存在してどこから溢れるのか。はたまた知り合いと見られるバートや、笑うと浮かんでしまうアルバートおじさんの正体であったり、彼等がメリーポピンズと過去に一体どんな関係があったのか、等々映画で明かされることはない。分かるのは風向きによってメリーポピンズは突如現れそしてまたどこかへ消えるということ。

序盤ナニーの言うことを聞かないジェーンとマイケルが彼等の父バンクス氏に次に雇うナニーに関する願いを書いた手紙を読み上げるも、しかしそれをバンクス氏は無残にも破り捨てる。文面は長文だけれどでもそれは2人の純粋な願いである。厳格な父に向かって堂々と主張することから彼等の両親や召使いが態度で示す「言うことの聞かないダメな子供」という雰囲気はいささか彼等に似合わないのは明確である。それを知ってか風は2人の願いをメリーポピンズの元へ届け、彼女はバンクス家へと赴くことになる。いわば風の前に散った小さくも大きな願いをメリーポピンズは拾う存在だとわかる。風向きに左右する凧のようにどこへ訪れるかは気まぐれだけど、適当にやあやあ、どーもどーもなどと人の家に上り込む人ではない。

 

 メリーポピンズの魔法はディズニー作品に登場する数々の魔法とは種類が異なる。“白雪姫”や“美女と野獣”、“マーメイド”、“眠れる森の美女”のように呪いのようないわば魔力として用いられる魔法もあれば、“アナと雪の女王”“ラプンツェル”のように周囲の人間に影響を与えてしまうような、自らが生まれながらにして抱えてしまった魔法などがある。(他にもあるし、魔法に関しての解釈は千差万別です!)

魔法そのものの正体は明かされていないという点では皆おんなじと言えるが、

(これはフォースという名前で、実は何千何百年にあの偉大なるお方が発見した元は〇〇惑星の△△物質の性質を応用した技術なのであります!的なストーリーのこと。

...この話は冗談ですよ!そんな話はない!)

エルサは魔法によって心を閉ざして王位を放り投げるまで追い詰められたり、白雪姫の魔女やマレフィセント、アースラは逆に自らの魔法で自らを破滅に導いてしまうなど、魔法を持つもの自身の中で、魔法の占めるウェイトが大きいし、自分が翻弄されやすいという面をもつ。

しかしメリーポピンズは魔法は一つの道具、ぐらいにしか考えていないように見える。メリーポピンズがジェーンとマイケルに教えたいものの正体を魔法というレンズを通して教えるに過ぎない。あくまでも魔法は数多ある中の一つの手段である。お砂糖ひとさじで世界は変わる、お掃除みたいなお仕事だって遊びになる、ニペンスを鳩にあげる。絵の中に入ればスーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスというような「意味のない」言葉を唱えてみて楽しむ。今携える言語や文化がお互い違くてもそれを意図も簡単に乗り越え通じ合えたりするのをその言葉は教えてくれる。

銀行員たちであったりバンクス氏がジェーンとマイケルにそれらを無駄とあしらうが、「意味のない」ことや今まで目配せをしなかったことにこだわりや趣味が息づいたり、そこに情緒を見つけて人の交流が生まれたりする。それが生きることや社会という戦いにおいて大切な武器になる。訪れた家に自分の鏡、帽子かけを使うように、メリーポピンズはこだわりというものが大事であると教える。砂糖や鳩の中に、もしくはそれを見つめることに時代の変化に惑わされないものがあると。

バンクス氏や銀行は”たった”2ペンスで豹変した。銀行員は2ペンスから全ては始まると説いたが、銀行というメタファー、それが示すいわば“世の流れ”からすれば2ペンスや子供は彼らにとって貶すに等しい。自らの地位や信念が、例えれば、山から湧き出た水が海に向かう中で何も影響されず必ず曲がることなく一直線を貫く、などと信じ込んでいる故に、上下関係や損得の価値観を生み出し「無駄」や「小さい」を排除しようとする。そこにいつも吹いていた西風から東風が吹き、メリーポピンズが舞い降りる。風を選び世の中に惑わされない彼女が現れる。そして、“スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス”を知り、大人は変わってゆく。そうしてバンクス氏も銀行員も家族の愛を再確認する。その時2ペンスを訴える階段の老婆の愛が届く。女性への権利向上の襷を糸にして空に掲げ、家族で帆を見上げながら。

劇中ジェーンとマイケルはメリーポピンズの言葉を素直に受け入れてゆくが、それは大人に貶されてきた彼等の発する“電波”がメリーポピンズと共鳴しているからであって鵜呑みにしているとかではない。最初から2人は変わってないのだ。彼らは信念を持っているが、自らを過信していない。変わる必要がない。この映画では大人が変わってゆくのだ。2人は銀行で取られかけた2ペンスを自ら取り返したり、一方で自らを反省し、父のために2ペンスを渡す。そうした彼らの純潔なる行動によって、バンクス家は皆手を取りもう一度やり直して行こうと決意する。その姿を見ればジェーンもマイケルも、メリーポピンズなしに生きていけないだとか、魔法がなくちゃもう楽しくないだとか文句を垂れる状況にはもうなく、メリーポピンズから能動的に学んだことはわかる。魔法はスパイスであって、それだけになったら子供が破滅してしまう。それをメリーポピンズはよくわかっているからこそどこか魔法にこだわらない姿が映るのではないだろうか。

 

不思議な東風からいつもの西風に変わった時、

メリーポピンズは去る。不思議な時にしか、彼女は現れることができない。子供と接する彼女には彼らとの日常性というものがない。本当はいつまでも見守ってやりたい。親に変わりたい。それが、ナニー、乳母の悲哀とも言えるがでもそれはしない。それは、子供たちの慕う親がすることなのである。片親でも、里親でも。たくさんの子供たちにそうしてきた、というメリーポピンズの去り際の言葉の奥深さに心が揺れ動く。

ジェーンとマイケルが別れを言っていない、と傘は揶揄するが、メリーポピンズは別れを言うつもりはないのではないか。いつでも見守っている。彼女の言葉にしないメッセージと私は取る。そしてジェーンとマイケル、もしかするとバンクス夫妻、加えてバートも雲の上へメリーポピンズへの慕情をこれからも送ることになる。

愛は言葉にも乗るが、言葉でなくても

伝わってゆく。確かに感じた作品だった。

 

余談です。

映画の中で気になる人物がいる。アルバートおじさんである。笑っていればなんでも忘れられるという一方で悲しいことを思い出してしまえばやっぱり現実に引き戻される、という笑いに関する二面性を“浮かぶ”というユニークな手法で伝えるシーンが象徴的だ。なるほど面白い、と合点したが、しかし一方気になるのはアルバートおじさんは笑う他なくなってしまっているように映ったことだ。バートやメリーポピンズは“介抱しなければならない”人として扱っているようにも見える。彼は笑うか、しょんぼり悲しみにくれるかのどっちかになっているのかもしれない。どこか笑いが何かからの「逃げ」になってしまっているのではないか。銀行員がバンクス氏のジョークを聞いて、笑って浮かぶというシーンがあったが、彼は間も無く死をむかえる。浮かぶ人は生物的なのか、社会的なのかはわからないが、死というものが近いのかもしれない。アルバートおじさんが過去に何があったのか、世間において今どんな状況にあるのかはわからない。だけれど彼が生きがいのようなものを持っていたらな、と願ってしまった。それが笑いなのかもしれないが。

 

そしてもう一つ。

メリーポピンズは製作から何十年と経っているが、出演者の多くが今尚活躍している。ただ付け加えたいのがマイケル役、マシュウ=ガーバーさんがメリーポピンズに出演をした後一本の映画に出たのち俳優業を引退して、21歳でこの世を去っていたことである。病の先での夭折である。若くして亡くなってしまった方の命に本当に失礼であるが、同情したり、悲哀を投げかけて、死を美化してしまうことが、私の中にある。いつもその時に、彼らの日常を想像することにしている。息を吸う。空を見上げる。海を見渡す。行きたい所へゆく。話したい誰かと話す。喧嘩をする。仲直りする。家族と1日であったことを話す。食事をする。嬉しくなったり、悲しくなったり、怒ったり、楽しくなったり。そして好きなことをする。

映画の中の人も僕らと同じ日常を過ごしている。映画は日常の先にある。たとえ亡くなっても彼らは、僕らと一緒に生きている。メリーポピンズで描かれた子供の成長と家族の愛、そしてこれから続くであろうバンクス家の日常、それがマシュウ=ガーバーさんにもあったであろうと祈り、彼の演技が与えてくれたものと共に私はこれからも彼と一緒に生きようと思っている。

 

ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。よろしければ、みなさんのメリーポピンズに対する思いをコメント欄にお寄せください。どこのシーンが好きだとか、どのキャラが好きだとか、その程度で全然構いません。

みなさんの「こだわり」を通して意見交換をさせていただきたいと思っております。

重ねて、ご一読ありがとうございました。