セブジーの雑な映画感想

セブジーの映画への思考、料理を吐露する無法地帯

「トイストーリー4 」を観て

予告編にアンディがいたから、もしかしてアンディのその後が見れるかもしれないと期待値を勝手にあげた。正直、3を超えるストーリーがあるかとかボーピープが復活するとかよりも、気持ちはアンディだった。トイストーリー4 に興味を持った理由は、なによりもアンディだった。唐沢寿明所ジョージが「驚いた!」と語っていたのが決定打になり、重い腰を上げて公開初日に劇場へ出向いた。

結果、観て思うのは、4はこれまでのシリーズと何かが違かったということだった。アンディはいない。ウッディの持ち主は優しくない。おもちゃの仲間達が全然活躍しない。主題歌の象徴的な歌詞「俺がついてるぜ」の意味が1~3と4ではまるで違くなった。俺はついてないじゃないか。「ずっとそばにいるぜ、相棒」ではなく、「苦しい時には君を思い出すと勇気が出るぜ、相棒」の意味に変わった。「もしも大事にしてくれる場合なら持ち主の君は相棒だ」「生き方・考え方を一致させたなら野放しに相棒だぜベイベー!」の意味も付加して、これまでのウッディのおもちゃとしてのスタンスも変えた。

丁寧じゃないな、と思った部分もある。ボニーがウッディを手放す過程をちゃんと描いていない。唐突にウッディだけ仲間外れだ。感動的だった冒頭の「ウッディとアンディの日々」を振り返るシーンよりも、むしろボニーがウッディに興味を無くして行くシークエンスが必要だと思う。3の後、短編がいくつか作られているがそこでは仲良くやっている。ウッディが持ち主専属のおもちゃを止めるに至るには、フォーキーの存在が関わってくるわけだが、その前に大きくボニーが要因にある。それらを踏まえて「おもちゃをやめていい」「愛されないならばこちらが蹴るまで」の考え方が生まれる。

 

アンディの元では出来たことが、ボニーの元ではできない。ボニーのおもちゃで居続けることも、流浪の旅人になるにも、精神的な「アンディとの別れ」がこの物語中に含まれる。粗雑な持ち主はこれまでの話でもいたわけだが、ある種4は3のまでの補完であるとも考えられる。

 

自分が望む場所は何処か。それを誰でも決めていい。わざわざ自分が必要とされない場所で苦しい思いをするよりも多少の犠牲はあれども心が負担を感じない、いわば「自由」へ行きましょう、ということなのかなと取った。トイストーリー4 単体でみると、色んな様に取れる物語になっているし、嫌いではない。頭を使えて楽しかったし、製作者側の熱意を感じる。だからそこまで酷評する気にもなれず、ウッディの選択を哀愁と共に受け止めるに至った。ギャビーギャビーが持ち主を見つけたのを尻目に、ウッディはもうおもちゃをやめると決めるなんて本当、哀しすぎる。結局、ウッディはだれのものでもなくなった。シリーズ初めからいた、バズもいない。アンディとの過去をほぼ断ち切った状態のウッディの冒険は、これで終わりだと思わざるを得ない。悔やまれるのは、もしもボニーがウッディを無くしたことをアンディが知った時、どうなるだろう、その一点だ。この映画はやもとすると、「アンディにはもう会えない」前提で作られたとしたら尚更やるせない。ただ、別れというのは不可避であることだとも思う。

 

人間において仕方のない引退を、ディズニー&ピクサーが年月をかけて大事にしてきたシリーズでわざわざ描いたのだと思う。エンターテインメントを描きつつ毎回意味を添えるトイストーリーで。そういったテーマを描きたいならトイストーリーでやらずに、単作を作ればいいという意見があった。確かに、とも頷きつつ、トイストーリーが適役でもあったとも思う。年月があって、引退があるから。高評価と、低評価が心に渦巻いたまま、まだウッディとアンディの2人がまた出会えるのを夢見ている。