セブジーの雑な映画感想

セブジーの映画への思考、料理を吐露する無法地帯

TENET (「インターステラー」の反証か?あるいは更なる演繹か?)

 

 

 

<ここでは

クリストファーノーラン監督のこれまでの映画

インターステラー

ダンケルク

インセプション

ダークナイト

の核心部分、重大なネタバレを交えながら、テネットの解釈、ネタバレを語っています。お気をつけください。かなりの長文になりました。今回コメディがよかったですよねー>

 

 

 

 

 我々は物理学によるアプローチはすでに“インターステラー”で体験しています。劇中の専門用語は理解できないけれど大枠は掴める。「人類を救うこと」に基づいて「孤独な男」が5次元という未知の最中、解決策を見つけます。ここでクーパーはロボットともに、5次元の解釈について未来人が作り上げたものとして「未来に期待する目線」を持つ発言をします。
 思い出せば、「正義」に基づきながら孤独で極限の境地から脱するというノーラン節は今回まで継続します。しかし強調したいのは、“インセプション”も”ダークナイト“も個人の都合、「夢か現か判明しなくては家族に会えない」「本当に英雄として立っていていいのか」という追求が同時進行でありました。正義とはせめぎ合いの先にあり、「成長」は名もなき英雄としてです。クーパーが老人になった娘と会わざるをえない、この哀しさも生まれます。劇中は彼らには自由意思を目指す通路でもありました。

 

 

 「名も無き男」は英語版においては「プロタゴニスト(=The protagonist )」という名が置かれていてこれを「主人公」と訳して、この物語は自由意思への従順と謳うこともできます。つまり劇中は何もはじまってはいなかったといえる。今回私はそれに付随してもう一つの意味、「改革の主唱者」を押します。これはTENET(=教義)の訳に筋が通り、かつスパイ組織として優秀な構造が浮かび上がります。名も無き男は確かにトップに君臨します。しかしミッション中、時間を逆行すると(本気で)平の捜査員に成り下がります。このとき部下たちも通じて「TENET」という言葉しか知り得ない。いわばリーダーの時点で素性を知らせないで問題の核となる状況を伝えるだけにすれば、個々人は何かが問題だ、という方向へは向かいます。何も知らないでミッションをしているんだな、というセイターの指摘や主人公の1人にすぎないというプリヤの嘲笑はまるごと、TENETという組織の高度さを表します。一部の人間の独裁や組織の混乱を防げるのです。時間の逆行はスパイ組織の理想化を可能にして、他のスパイ映画で出てくるような「せめぎ合い」を無くしているのです。有能なスパイのただの集まりではなく、教義に呑まれた者たちの集合です。教義の対立がなくて、組織ではなく漠然としているのがここの強みでした。一つの目標、セイターを倒すという全人類の目標らしいものと、それに裏をかかないキャットたちの未来の保護は名も無き男の主義なのです。保護すると決めたのはその男でしかない。そしてキャットの未来を願うと同時に今回のTENETの存在意義は息を潜めます。「一人ではじまり、一人でおわる」、これが他のスパイ映画と字面は同じでも内容が違う点であり、またなかなか劇中で感じづらかった友愛的な部分、ニールの活躍とはまた異なる「人間ドラマ」です。(そして幕が下りる)
 ここで再確認します。TENETはずっとプロタゴニストの手の内にあります。プロタゴニストがいればTENETがある。人間としての葛藤より自分の思想を叶えるミッションの成功が優先された物語でもあったのです。時間の逆行は教義の演繹での確立でもありました。

 

スーパーマリオで例えてみましょう。TENET(=教義)の開始は、いつものエピローグ、クッパを倒し終わりピーチとマリオが帰還するところからといえます。(注意しましょう、ゲームの冒頭、1-1のピーチがさらわれたところからTENETが始まるわけではありません。)

ピーチを救えたと思った瞬間、道中を思い返せば、逆行するマリオとクッパ同士が戦うようなことがあった。エピローグの時、クッパはピーチ奪還に失敗したあと、時間を逆行することで取り返そうとする。マリオはそれを把握して、ラストにたどり着いた。そのとき、マリオはピーチを守り抜いたあとで逆行する必要性が生まれます。逆行クッパの阻止は全体ミッションが終わってまでも降りかかってしまう。逆行されたらこちらも逆行して阻止しなくてはいけない。しかし、今回TENETには他の方が指摘の通り、決定論的運命があります。マリオはしっかりピーチを救えている時点で逆行による干渉は機能しないまま、未来は始まることは決まっている。そうしたときクッパは逆行したとして失敗する運命であり、帰還するピーチとマリオはとりあえず安心なわけです。もう一度繰り返しますが、ここでTENET(=教義)ははじまる。とにかくピーチは護りたいという未来時点での教義のもと、通り過ぎてきた過去のなかで逆行を正さないといけない。逆行バトルがどの時点にあるかはわかりませんが、TENETが終わるとき(最終的にピーチはマリオが救う)、敵はいなくなっている。敵を倒すことが目的ではなく経過で、思想や願望の樹立が最初にあって、最後にある。演繹法的考えをそのまま物語にしたともいえます。

つまり、キャットと息子の安全を願う瞬間に、TENETは開始され、過去時点で脅かしてきたセイターの存在が危機に感じられる。ここの時点でセイターは倒しているのですが、未来でTENET組織への仕事がありますし、ニールも待っている。キャットと息子を救わなくてはいけないという感情は、通り過ぎてきたミッションのなかでは生まれていない。TENETの開始、キャットと息子の未来を護りたいと思った時点で、彼女との過去での関わりを持ちながら、キャットが護られることは運命的にも決められる。(不思議な動機の持ち方です。)劇中集団行動が多かったわけですが、ひとりで思ったことを、たしかにひとりで思ったことになるように動いてゆく話だった。ひとりではじめて、みんなを巻きこみ、ひとりにおさまる。名も無き男は、時間の中に閉じ込められながら、TENETのはじまりとおわりのときに希望を見るのです。

 

つまり演繹とは手間がかかり、かつ未来(ラストカット)から見て教義は最初から決まっていたものです。その先はTENETの適応範囲ではない。あくまでも教義の確立のための動きですから、ニールをメンバーに入れることなどの処理はあくまで仕事であって、邪魔をする未来人が悪い再定義をするまではもはやTENETは存在しない。ここにTENETに物語が潜ませた倫理観がある。「アンチ悪」だけの団体であり、倒したら跡形もなく消えるのです。そして1人であり、みんなであり、1人に帰る。戦争は主義の戦いでもありますが、やはり第三次世界大戦も「悪vsアンチ」の主義の戦いと言えます。

 


 ”インターステラー“は「人類を救う」期待をも反芻する時間がありました。自分の子供たちへ会いたいという願いやもうミッションは達成できないだろうという諦めです。これはこれまでの作品も見られました。精神による反例は主張の裏付けの過程にあります。
しかし、未来人への落胆しかりこの映画はインターステラーの逆をとっているようにも見えます。主義が一人歩きしている。インターステラーでは、人類を救うことが子供を救うという全体と個人の主張が達成されました。地球は壊滅的でしたが二つのベクトルを持って諦めなかったわけです。今回は状況も、主人公の心境も違う。未来人は諦めてしまっている故の事件だし、その未来に対して何もわからず終わってしまう。いわばまだまだ諦観のさなかであり、どうなるかわからないままです。第二次世界大戦の一瞬を描いた“ダンケルク”では、主人公は帰国を果たしますが、まだまだ大戦の最中であって、新聞のイギリスの主張に対して主人公は溜息を吐く。その諦観がやはり続いてしまっている。そしてクリストファーノーラン監督が、劇中で掲げたテーマについて一旦落ち着かせる(人類は救われる、英雄は望む方へ旅立つなど)という作業が“ダンケルク“”テネット“においては省かれているように思えます。これは意図的でしょうが、苦しい気持ちは拭えない。そしてテネットは意外とその傾向が強い話でもあるのです。

 


 “TENET”は、描かれない、未来のシーンについては観客が決める必要のある映画であると思います。中身のない、主義の体現の身となったTENETのリーダーに、意思は自由に樹立できても、自由意思があるかはやはり語られていないところです。そしてスパイ組織のミッション自体を中心的に描いたために人間ドラマのヒントが正直ない。(=新たなスパイ映画として優秀)キャットの存在は世界存続の証明でしょう。キャットと息子は安全だろう、プロタゴニストがきっとニールに会うだろう、TENETはたしかに全人類の中心をとった教義だろう、と怖くもあり信じたいこの衝動は、自らの中で証明する必要があります。たどり着いた目の前に人が生きているという真実です。これまでのクリストファーノーラン監督映画の、孤独から脱出するときの主人公たちや登場人物たちの期待と同じ、ないものを信じる、これこそが主人公たる所以でした。つまりノーラン監督の映画のセオリーを演繹的に証明する段階を今回は観客に委ねられています。“インターステラー”で例えるなら、クーパーは地球を出ていない、対して娘は年老いて父の帰還をまっているようなところに観客は3時間かけて置かれてしまったのです。観客にこそ自由意思の余白が置かれたのです。