セブジーの雑な映画感想

セブジーの映画への思考、料理を吐露する無法地帯

怪物 <ネタバレあり・「子供の見る永遠」>

 

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ネタバレしかない!注意!

 

 

 

 

 

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是枝監督の怪物。

 

「怪物」ってタイトルにそんなに意味あるのかなーと思った人間です。誰が怪物なのかなんて簡単には言えないと思いました。そもそも怪物の言葉の持つ意味が広すぎる。そこからまずは登場人物を離してやることが先決かと。

ラストについては、現実ではなく夢だと思いますが、視聴者と2人だけが共有している<誰も届かない秘密の国>なのだととらえました。やがて成長して、その国が忘れ去られようと永遠なのです。生まれ変わるなら、いや生まれ変わらないのは2人の夢とその関係と時間です。続きます。これが2人を強く肯定すると同時に、視聴者のことも肯定します。確かに、<社会的な承認>や<家庭や学校の不和>の解決はされていませんから、私たちは間違っていないと孤独の中言い聞かせるような物悲しいラストに見えるかもしれません。実際、そう言った寂しさを私も感じました。しかし、それを上回る説得力を持っています。そしてそれらを内包しつつ永遠を語り映画は終わるのです。もっと内面や哲学のことを語っていたのです。親や担任や校長は嵐の中子供たちを探しますが、それすらも<見守っている>意味を浮かび上がらせるのは、この映画の手腕が光るところです。

TENET (「インターステラー」の反証か?あるいは更なる演繹か?)

 

 

 

<ここでは

クリストファーノーラン監督のこれまでの映画

インターステラー

ダンケルク

インセプション

ダークナイト

の核心部分、重大なネタバレを交えながら、テネットの解釈、ネタバレを語っています。お気をつけください。かなりの長文になりました。今回コメディがよかったですよねー>

 

 

 

 

 我々は物理学によるアプローチはすでに“インターステラー”で体験しています。劇中の専門用語は理解できないけれど大枠は掴める。「人類を救うこと」に基づいて「孤独な男」が5次元という未知の最中、解決策を見つけます。ここでクーパーはロボットともに、5次元の解釈について未来人が作り上げたものとして「未来に期待する目線」を持つ発言をします。
 思い出せば、「正義」に基づきながら孤独で極限の境地から脱するというノーラン節は今回まで継続します。しかし強調したいのは、“インセプション”も”ダークナイト“も個人の都合、「夢か現か判明しなくては家族に会えない」「本当に英雄として立っていていいのか」という追求が同時進行でありました。正義とはせめぎ合いの先にあり、「成長」は名もなき英雄としてです。クーパーが老人になった娘と会わざるをえない、この哀しさも生まれます。劇中は彼らには自由意思を目指す通路でもありました。

 

 

 「名も無き男」は英語版においては「プロタゴニスト(=The protagonist )」という名が置かれていてこれを「主人公」と訳して、この物語は自由意思への従順と謳うこともできます。つまり劇中は何もはじまってはいなかったといえる。今回私はそれに付随してもう一つの意味、「改革の主唱者」を押します。これはTENET(=教義)の訳に筋が通り、かつスパイ組織として優秀な構造が浮かび上がります。名も無き男は確かにトップに君臨します。しかしミッション中、時間を逆行すると(本気で)平の捜査員に成り下がります。このとき部下たちも通じて「TENET」という言葉しか知り得ない。いわばリーダーの時点で素性を知らせないで問題の核となる状況を伝えるだけにすれば、個々人は何かが問題だ、という方向へは向かいます。何も知らないでミッションをしているんだな、というセイターの指摘や主人公の1人にすぎないというプリヤの嘲笑はまるごと、TENETという組織の高度さを表します。一部の人間の独裁や組織の混乱を防げるのです。時間の逆行はスパイ組織の理想化を可能にして、他のスパイ映画で出てくるような「せめぎ合い」を無くしているのです。有能なスパイのただの集まりではなく、教義に呑まれた者たちの集合です。教義の対立がなくて、組織ではなく漠然としているのがここの強みでした。一つの目標、セイターを倒すという全人類の目標らしいものと、それに裏をかかないキャットたちの未来の保護は名も無き男の主義なのです。保護すると決めたのはその男でしかない。そしてキャットの未来を願うと同時に今回のTENETの存在意義は息を潜めます。「一人ではじまり、一人でおわる」、これが他のスパイ映画と字面は同じでも内容が違う点であり、またなかなか劇中で感じづらかった友愛的な部分、ニールの活躍とはまた異なる「人間ドラマ」です。(そして幕が下りる)
 ここで再確認します。TENETはずっとプロタゴニストの手の内にあります。プロタゴニストがいればTENETがある。人間としての葛藤より自分の思想を叶えるミッションの成功が優先された物語でもあったのです。時間の逆行は教義の演繹での確立でもありました。

 

スーパーマリオで例えてみましょう。TENET(=教義)の開始は、いつものエピローグ、クッパを倒し終わりピーチとマリオが帰還するところからといえます。(注意しましょう、ゲームの冒頭、1-1のピーチがさらわれたところからTENETが始まるわけではありません。)

ピーチを救えたと思った瞬間、道中を思い返せば、逆行するマリオとクッパ同士が戦うようなことがあった。エピローグの時、クッパはピーチ奪還に失敗したあと、時間を逆行することで取り返そうとする。マリオはそれを把握して、ラストにたどり着いた。そのとき、マリオはピーチを守り抜いたあとで逆行する必要性が生まれます。逆行クッパの阻止は全体ミッションが終わってまでも降りかかってしまう。逆行されたらこちらも逆行して阻止しなくてはいけない。しかし、今回TENETには他の方が指摘の通り、決定論的運命があります。マリオはしっかりピーチを救えている時点で逆行による干渉は機能しないまま、未来は始まることは決まっている。そうしたときクッパは逆行したとして失敗する運命であり、帰還するピーチとマリオはとりあえず安心なわけです。もう一度繰り返しますが、ここでTENET(=教義)ははじまる。とにかくピーチは護りたいという未来時点での教義のもと、通り過ぎてきた過去のなかで逆行を正さないといけない。逆行バトルがどの時点にあるかはわかりませんが、TENETが終わるとき(最終的にピーチはマリオが救う)、敵はいなくなっている。敵を倒すことが目的ではなく経過で、思想や願望の樹立が最初にあって、最後にある。演繹法的考えをそのまま物語にしたともいえます。

つまり、キャットと息子の安全を願う瞬間に、TENETは開始され、過去時点で脅かしてきたセイターの存在が危機に感じられる。ここの時点でセイターは倒しているのですが、未来でTENET組織への仕事がありますし、ニールも待っている。キャットと息子を救わなくてはいけないという感情は、通り過ぎてきたミッションのなかでは生まれていない。TENETの開始、キャットと息子の未来を護りたいと思った時点で、彼女との過去での関わりを持ちながら、キャットが護られることは運命的にも決められる。(不思議な動機の持ち方です。)劇中集団行動が多かったわけですが、ひとりで思ったことを、たしかにひとりで思ったことになるように動いてゆく話だった。ひとりではじめて、みんなを巻きこみ、ひとりにおさまる。名も無き男は、時間の中に閉じ込められながら、TENETのはじまりとおわりのときに希望を見るのです。

 

つまり演繹とは手間がかかり、かつ未来(ラストカット)から見て教義は最初から決まっていたものです。その先はTENETの適応範囲ではない。あくまでも教義の確立のための動きですから、ニールをメンバーに入れることなどの処理はあくまで仕事であって、邪魔をする未来人が悪い再定義をするまではもはやTENETは存在しない。ここにTENETに物語が潜ませた倫理観がある。「アンチ悪」だけの団体であり、倒したら跡形もなく消えるのです。そして1人であり、みんなであり、1人に帰る。戦争は主義の戦いでもありますが、やはり第三次世界大戦も「悪vsアンチ」の主義の戦いと言えます。

 


 ”インターステラー“は「人類を救う」期待をも反芻する時間がありました。自分の子供たちへ会いたいという願いやもうミッションは達成できないだろうという諦めです。これはこれまでの作品も見られました。精神による反例は主張の裏付けの過程にあります。
しかし、未来人への落胆しかりこの映画はインターステラーの逆をとっているようにも見えます。主義が一人歩きしている。インターステラーでは、人類を救うことが子供を救うという全体と個人の主張が達成されました。地球は壊滅的でしたが二つのベクトルを持って諦めなかったわけです。今回は状況も、主人公の心境も違う。未来人は諦めてしまっている故の事件だし、その未来に対して何もわからず終わってしまう。いわばまだまだ諦観のさなかであり、どうなるかわからないままです。第二次世界大戦の一瞬を描いた“ダンケルク”では、主人公は帰国を果たしますが、まだまだ大戦の最中であって、新聞のイギリスの主張に対して主人公は溜息を吐く。その諦観がやはり続いてしまっている。そしてクリストファーノーラン監督が、劇中で掲げたテーマについて一旦落ち着かせる(人類は救われる、英雄は望む方へ旅立つなど)という作業が“ダンケルク“”テネット“においては省かれているように思えます。これは意図的でしょうが、苦しい気持ちは拭えない。そしてテネットは意外とその傾向が強い話でもあるのです。

 


 “TENET”は、描かれない、未来のシーンについては観客が決める必要のある映画であると思います。中身のない、主義の体現の身となったTENETのリーダーに、意思は自由に樹立できても、自由意思があるかはやはり語られていないところです。そしてスパイ組織のミッション自体を中心的に描いたために人間ドラマのヒントが正直ない。(=新たなスパイ映画として優秀)キャットの存在は世界存続の証明でしょう。キャットと息子は安全だろう、プロタゴニストがきっとニールに会うだろう、TENETはたしかに全人類の中心をとった教義だろう、と怖くもあり信じたいこの衝動は、自らの中で証明する必要があります。たどり着いた目の前に人が生きているという真実です。これまでのクリストファーノーラン監督映画の、孤独から脱出するときの主人公たちや登場人物たちの期待と同じ、ないものを信じる、これこそが主人公たる所以でした。つまりノーラン監督の映画のセオリーを演繹的に証明する段階を今回は観客に委ねられています。“インターステラー”で例えるなら、クーパーは地球を出ていない、対して娘は年老いて父の帰還をまっているようなところに観客は3時間かけて置かれてしまったのです。観客にこそ自由意思の余白が置かれたのです。

TENETに辿り着けぬとき

https://youtu.be/jl0bT7rYIdM

「TENET」予告編では堂々とノーランの過去作のカットが入る。それらに意味を置きにいかざるを得ない。

 

「大衆に隠されたミッション」

「けっして強者ではない立場」

「時間を操る演出」

はノーランの映画の最低限のコードであり、予告編からそれが守られていることと、やはり複雑な話であることを瞬時に把握する。第二次世界大戦の一幕を描いたダンケルクの次に第三次世界大戦を防ぐ話であることも相まって、わざとらしさの渋滞を感じたのだ。もしかして今までの物語のエッセンスを凝縮したものではないか?

これはやはり予告編のマジックだろうか。本編を継ぎはぎしたものを見たときの一方的な興奮であろうか。ノーランが時間を操ることをうっかり忘れた所以のものか。

複雑な話を提示したあとのごく純粋なラストをまっているぼく自身もわざとらしい。結局、非情な現実の先へゆく孤高の物語だというような期待を非情なストーリーによって裏切られに映画館へ通うのだ。コロナが広がって密閉空間が怖くなった今も昔もいるだろう、黙りゆく英雄を見たくてゆくのだ。素晴らしいあの人のことを称えられない自分の日常を鼓舞しにゆくのだ。

TENET、もう辿りついていてもあまりに遠い。時間は遡らない。

「トイストーリー4 」を観て

予告編にアンディがいたから、もしかしてアンディのその後が見れるかもしれないと期待値を勝手にあげた。正直、3を超えるストーリーがあるかとかボーピープが復活するとかよりも、気持ちはアンディだった。トイストーリー4 に興味を持った理由は、なによりもアンディだった。唐沢寿明所ジョージが「驚いた!」と語っていたのが決定打になり、重い腰を上げて公開初日に劇場へ出向いた。

結果、観て思うのは、4はこれまでのシリーズと何かが違かったということだった。アンディはいない。ウッディの持ち主は優しくない。おもちゃの仲間達が全然活躍しない。主題歌の象徴的な歌詞「俺がついてるぜ」の意味が1~3と4ではまるで違くなった。俺はついてないじゃないか。「ずっとそばにいるぜ、相棒」ではなく、「苦しい時には君を思い出すと勇気が出るぜ、相棒」の意味に変わった。「もしも大事にしてくれる場合なら持ち主の君は相棒だ」「生き方・考え方を一致させたなら野放しに相棒だぜベイベー!」の意味も付加して、これまでのウッディのおもちゃとしてのスタンスも変えた。

丁寧じゃないな、と思った部分もある。ボニーがウッディを手放す過程をちゃんと描いていない。唐突にウッディだけ仲間外れだ。感動的だった冒頭の「ウッディとアンディの日々」を振り返るシーンよりも、むしろボニーがウッディに興味を無くして行くシークエンスが必要だと思う。3の後、短編がいくつか作られているがそこでは仲良くやっている。ウッディが持ち主専属のおもちゃを止めるに至るには、フォーキーの存在が関わってくるわけだが、その前に大きくボニーが要因にある。それらを踏まえて「おもちゃをやめていい」「愛されないならばこちらが蹴るまで」の考え方が生まれる。

 

アンディの元では出来たことが、ボニーの元ではできない。ボニーのおもちゃで居続けることも、流浪の旅人になるにも、精神的な「アンディとの別れ」がこの物語中に含まれる。粗雑な持ち主はこれまでの話でもいたわけだが、ある種4は3のまでの補完であるとも考えられる。

 

自分が望む場所は何処か。それを誰でも決めていい。わざわざ自分が必要とされない場所で苦しい思いをするよりも多少の犠牲はあれども心が負担を感じない、いわば「自由」へ行きましょう、ということなのかなと取った。トイストーリー4 単体でみると、色んな様に取れる物語になっているし、嫌いではない。頭を使えて楽しかったし、製作者側の熱意を感じる。だからそこまで酷評する気にもなれず、ウッディの選択を哀愁と共に受け止めるに至った。ギャビーギャビーが持ち主を見つけたのを尻目に、ウッディはもうおもちゃをやめると決めるなんて本当、哀しすぎる。結局、ウッディはだれのものでもなくなった。シリーズ初めからいた、バズもいない。アンディとの過去をほぼ断ち切った状態のウッディの冒険は、これで終わりだと思わざるを得ない。悔やまれるのは、もしもボニーがウッディを無くしたことをアンディが知った時、どうなるだろう、その一点だ。この映画はやもとすると、「アンディにはもう会えない」前提で作られたとしたら尚更やるせない。ただ、別れというのは不可避であることだとも思う。

 

人間において仕方のない引退を、ディズニー&ピクサーが年月をかけて大事にしてきたシリーズでわざわざ描いたのだと思う。エンターテインメントを描きつつ毎回意味を添えるトイストーリーで。そういったテーマを描きたいならトイストーリーでやらずに、単作を作ればいいという意見があった。確かに、とも頷きつつ、トイストーリーが適役でもあったとも思う。年月があって、引退があるから。高評価と、低評価が心に渦巻いたまま、まだウッディとアンディの2人がまた出会えるのを夢見ている。

「アナと雪の女王」をみて

・ネタバレありです。お気をつけて。って、結構見られてるから言わなくてもいいか?

 

アナと雪の女王

”FROZEN“

 

監督
クリス・バック
ジェニファー・リー


脚本
ジェニファー・リー

 

原案
クリス・バックジェニファー・リー
シェーン・モリス


原作
ハンス・クリスチャン・アンデルセン
雪の女王


製作
ピーター・デル・ヴェッチョ


製作総指揮
ジョン・ラセター

 

音楽
クリストフ・ベック


主な出演者

アナ
→クリスティン・ベル

エルサ
イディナ・メンゼル

クリストフ
→ジョナサン・グロフ

 

 

 

キングダムハーツIII」で「ありのままで」のシーンの再現度がすんごい、という声がツイッター上に見られた。そのまんまあの雪山シーンを映画と同じように再現したという訳でなく、視点を変えて撮っていたりとキンハーならではの演出があって唸った。

(キングダムハーツって、道端の敵を着実に倒していかないとレベルが上がらなくて後で苦しむのをドロップディスタンスで知りました。黒いフードをかぶったやつを倒しきれず途中で脱落し、今のところプレイしたキングダムハーツはそれだけです。でもやっぱり宇多田さん含めて音楽がとっても好きです。)

 

今回取り上げるのは続編も決まったアナと雪の女王です。松たか子さんと神田沙也加さん、もしくはイディナ=メンゼルの歌唱が頭に残っている人も多い。僕は生まれてはじめてが好きです。リプライバージョンもまたいい。でもやはりありのままで、が主として捉えられているように見える。そうなると、冒頭30分にしてクライマックスがあるようにも思えるが、最後にどんでん返しがある。視聴者からすれば、ディズニー作品となれば必ずヒロインもしくはヒーローが勝つ、という前提のもと見に行く。これまでのディズニー作品の主なイメージからすれば、ヒーローがヒロインを救う構造が視聴者自身によって当てはめられていたが、この作品でそれを一気にぶち壊す。

女は男が救うもの、男は女が救うもの、そういう旧態然とした性差別のイメージがこの映画によって自分の中に息づいていることを知る。そもそも子供が愛を知るのは家族であったり、仲間だったりするのだ。恋の快感、今までにないもの、の中に愛を見るからその時始めて愛を知ったと感じるのだろうが、赤ん坊の時にもらうのは家族なり、笑顔でかわいい、と言ってくれるような道端のおばあちゃんなどの愛である。

 

“Frozen”がこの映画の原題である。エルサの雪の魔法のこと、その魔法を操れず心が閉じこもってしまうその様、そしてアナが凍ってしまうことなどなど色々な意味を含む原題と捉えている。アナと雪の女王という題名はそれでいいと思うのだが、日本語で原題のもつ意味の幅広さを表現するのは難しい。アナが、彼女に他人行儀を貫く実の姉が一人で作り上げた”雪の女王”像と対峙する、という印象を見出すことはできるが、やはり”Frozen”の言葉がこの映画の根本を支えているのではないか。

(でもアナの名前は出してエルサの名前を出さないのは何故!?かわいそうじゃん、エルサ!ポスターだと上の方でデッカく存在感放ってるのにぃ!)

 

エルサはありのままで、と雪山で堂々と宣言した割にアナが訪ねてくると怯えて、こっち来るな、とのたまう。本当に、“ありのまま”になって割り切ったのなら、妹に対してもさらっと受け流してさよなら妹よ永遠に、と言える筈だ。本来なら王位を投げ打ったのだから、責任を取ってアレンデールへ帰り、申し訳ないが女王にはなれない、失望させてすまない。と言付けしてひとりの雪山の王国を築けばいい。果たすべき任務から逃げたことになるが、自分に正直であるという点でありのままである。しかしそうはできない。エルサの心には良心が未だ宿っているからだ。何も縛られないわと、歌った割に。エルサが苦しんでいるのは物語中一貫して自らの魔法で他人を傷つけることを恐れることから来る。その延長線上にあの雪山での叫びがあるのだが、割り切れていない。雪山の城を築き上げてもなお、自分から逃げているのだ。極端な例だが、学校や会社をサボったのだが、なんか罪悪感があって、遅れても行くべきか迷い、でもなんとなく別にそれでいいやとなって“ありのままで”を歌い、笑っていいともを見ながら一日遊ぶも、明日が迫り来るともっと焦る、みたいなことだ。

(何?具体的すぎるって?そうだよ、実体験だよ!!!悪いか!)

 

未だ知れぬ魔法で他人を傷つけるまい。それは彼女の愛である。だれかのためを思うという点で。この物語で悪なのは、あのわけのわからないチクタク権力大好きアホではない。幼少期に魔法の恐ろしさを説いたあのトロールである。魔法についてよく知っているという点で称えるべきではあるが、幼少のエルサにトラウマを植え込むような教え方をしたのだ。善意の悪といえる。あんな真っ赤なイメージを見せるのは全然子供のことをわかっていない。....などといってしまうのだが、人のことを知らぬ間に傷つけてしまう可能性が誰にもあるということに気づく。善意のつもりで、人生を左右させてしまうようなことをしてしまう。そしてそれに教えた本人が気づかない。恐ろしすぎる。身をきちんと立てねば、と強く刻む。

(メリーポピンズがいたら、魔法の使い方はすぐに身につくはず。魔法なんて、本当は二の次!そうしたらもうアナとエルサはずっと仲良しだったよ!なんなら、ディズニーのプリンセスは全員シュガーラッシュ2みたいにすぐ勇敢になっちゃうよ。白雪姫も下克上は一日で終わる!....メリーポピンズがそれを許さないか?ってかそもそも話が展開しなくなるな。)

 

エルサを囲うのは常に善意だった。両親もエルサの魔法をどうすればいいのか分からず城を閉じてエルサをひとりにするしかなかった。アナだって、ずっと雪だるま作ろうとドアを叩き続けた。国民だって、エルサのことを悪く言わないし、そもそも彼女の状況を知らない。でもそうするたびにエルサの心は凍ってゆく。なぜなら、時間が経つにつれ周りからの“期待”に答えられない自分が浮き彫りになり、その自分になるために、解決しなければならない魔法も操れそうになく絶望が切り立つ。エルサの完璧主義、つまり他人の期待に答えねば、という考えが1人の部屋で養われたのが分かる。完璧主義は即ち自分否定主義である。自分のなすこと全てに納得が行かず、他人の理解も得られない。何をしても自分からも他人からも否定されるように感じる。そうするたびに理想は遠のき、自分を責める。他人に見せられる姿は何一つなく、孤独になる他なくなる。彼女もその周りもそうする他もうどうしようもなかった、と言うしかないのが悔しい。ただ、トロールだけはもう少し方法を変えて指導する、またし続けるべきだった。ひとりになりたいのに、その呟きが重くて言葉が詰まる。

1人がいいという人は多いだろうし、僕もそうだ。内向的といえばいいだろうか。エルサの姿を見て、どこか自分を重ねてしまった。いてほしいんだけどアナにはちょっと距離を置いてほしいな、と思ってしまう側の人間だ。エルサを現代で例えるなら、極端だが、「ひきこもり」だ。彼らもそうせざる得ない理由と、周りの人間もそうせざるえない理由をもつ。外から見れば、何で就労しないの、何で引きこもるの?とばかり問い詰めて、逃げてるし何もしないから楽でしょ?と考えて彼らが凍りついているの知らない。引き出すことが最優先と善意を持つことで彼らが心をもち、また傷ついた過去があるのを無視する。逃げもまた、戦いなのである。エルサも1人でずっと戦っていた。

アナも家族もエルサと同じように閉じこもっていた。エルサの魔法が大衆に暴かれて更にエルサが傷つくのを避けた。家族同士辛さを分け合おうとしたのだ。この映画で描かれる“家族の愛”はもう冒頭でも描かれている。

 

凍ったエルサの愛、氷に覆われたアナの愛、奇しくも海に沈んでしまった両親の愛。エルサが凍った水の上でアナを抱擁した時、全ての愛が実る。エルサの魔法の正体が暴かれる。誰かのために使うのに生まれた魔法だということ。ラストの”愛“、という言葉に納得する。エルサは姉として優しさをもって、もう幼い時から、アナを雪で遊ばせていた。幼い時から、エルサは何ひとつ間違っていなかった。引きこもって、そのあと雪山にこもるまでも。

僕はラストでもありのままで、を歌うべきだと思います。エルサが自分に正直になったのは、ラストである。キャスト全員で歌うと説得力も強い。その役割を果たすのがスタッフロールの歌なのだろう。

 

アナと雪の女王は、男女間における意味での愛、という愛の凍りつけられたイメージやディズニー作品そのものに対するイメージを見事にぶち破り、家族愛や同性間・異性間の、新しくも原点に立ち返った愛のイメージを鮮やかに描いた作品だ。こりゃ、大ヒットしないわけがない。ああ、もう一度見たい。

 

余談です。

メリーポピンズもそうですが、ディズニー映画の難しいところは、ミュージカルである故に、歌に乗った歌詞や丁寧に描かれた人間描写を、歌のリズムに乗りすぎてすっ飛ばしてしまうことです。ディズニーにはやはり楽しいことを第一に求めるから複雑になってしまう。何度も見なければわからないものはわからないが、今回は音楽が特に強すぎて何回みても分かりづらい。生まれてはじめてありのままで雪だるまを作らねばならないから....

あ、クリストフとオラフのことあんまり書かなかったな。オラフって、気づいたんですが、エルサがありのままでを歌った時に作られたんですね!エルサの娘じゃん。次期国王じゃん。ワオ。クリストフはいいやつだけど、ソリのシーンしか記憶にないや...ごめんよ、でもアメリカの担当俳優はドラマgleeに出た人で、当時自分の中でぞわぞわした記憶があります。

ちなみに、冒頭で流れるナーナーナーエンヤーヤーって曲、好きです。

 

長文をご一読くださりありがとうございました!では今日だけはさようなら!

 

「メリー•ポピンズ」を見て

•ネタバレがあります。

映画を見た方向けの文章です。

またクソ長い上、どうでもいいことを

ダラダラ述べているだけなので

見なくて正解です。

 

 

「メリー•ポピンズ」”Mary Poppins”

監督
ロバート・スティーヴンソン (実写)
ハミルトン・S・ラスク (アニメ)

 

脚本
ビル・ウォルシュ
ドン・ダグラディ

 

製作
ウォルト・ディズニー
ロイ・O・ディズニー

 

音楽
アーウィン・コスタル

 

主な出演者

メリー・ポピンズ
ジュリー・アンドリュース

 

バート
ディック・ヴァン・ダイク

 

ジョージ・バンクス
→デヴィッド・トムリンソン

 

ウィニフレッド・バンクス
→グリニス・ジョンズ

 

ジェーン・カロライン・バンクス
→カレン・ドートリス

マイケル・バンクス
→マシュウ・ガーバー

 

 

 

 

 

最近、「メリーポピンズ リターンズ」が

公開されていることを受けて、

サウンドオブミュージック“などの

ジュリー=アンドリュースさんが主演を務めた

ディズニーの「メリーポピンズ」を見直した。ここではその第1作に関する感想を述べる。

 

「メリーポピンズ リターンズ」に関して、

未だ視聴はしていないが、

プラダを着た悪魔”が好きな故

エミリー=ブラントさんが気になるし、

純粋に見たいと考えている。

しかし、「メリーポピンズ」に関して続編は

要らない、というスタンスがいまのところ

自分の中にあることを添える。

「メリーポピンズ」の製作秘話を描いた同じくディズニー製作の「ウォルトディズニーの約束」を見ると、果たして既に亡くなっている原作者PLトラヴァースはこの続編を許したか、もしくは映画の内容をどう捉えたかという点が気がかりだし、また「メリーポピンズ」は既に一つで完成しているものではないかと考えるからだ。

実際原作の本は続編は書かれているものの、

果たして「メリーポピンズ リターンズ」はどういう位置付けで製作されたのか。

「メリーポピンズ」「ウォルトディズニーの約束」と順にメリーポピンズ関連作品の感想を述べたのち、「メリーポピンズ リターンズ」の感想をレンタル作品で出た頃に述べてゆくいわば長期的な感想シリーズになる予定です。

今みろよ、という話があるかもしれませんが、近隣の映画館が吹き替え版しか上映しておらず、

(先に字幕版を見ておきたいというこだわりであって、平原綾香さんの吹き替え版は見たい。)

メリーポピンズをじっくり見返してからがいいと踏み込んだためまだ見てません。

それでは感想です。

 

 メリーポピンズとは一体誰なのか。彼女が使う魔力は一体何のために存在してどこから溢れるのか。はたまた知り合いと見られるバートや、笑うと浮かんでしまうアルバートおじさんの正体であったり、彼等がメリーポピンズと過去に一体どんな関係があったのか、等々映画で明かされることはない。分かるのは風向きによってメリーポピンズは突如現れそしてまたどこかへ消えるということ。

序盤ナニーの言うことを聞かないジェーンとマイケルが彼等の父バンクス氏に次に雇うナニーに関する願いを書いた手紙を読み上げるも、しかしそれをバンクス氏は無残にも破り捨てる。文面は長文だけれどでもそれは2人の純粋な願いである。厳格な父に向かって堂々と主張することから彼等の両親や召使いが態度で示す「言うことの聞かないダメな子供」という雰囲気はいささか彼等に似合わないのは明確である。それを知ってか風は2人の願いをメリーポピンズの元へ届け、彼女はバンクス家へと赴くことになる。いわば風の前に散った小さくも大きな願いをメリーポピンズは拾う存在だとわかる。風向きに左右する凧のようにどこへ訪れるかは気まぐれだけど、適当にやあやあ、どーもどーもなどと人の家に上り込む人ではない。

 

 メリーポピンズの魔法はディズニー作品に登場する数々の魔法とは種類が異なる。“白雪姫”や“美女と野獣”、“マーメイド”、“眠れる森の美女”のように呪いのようないわば魔力として用いられる魔法もあれば、“アナと雪の女王”“ラプンツェル”のように周囲の人間に影響を与えてしまうような、自らが生まれながらにして抱えてしまった魔法などがある。(他にもあるし、魔法に関しての解釈は千差万別です!)

魔法そのものの正体は明かされていないという点では皆おんなじと言えるが、

(これはフォースという名前で、実は何千何百年にあの偉大なるお方が発見した元は〇〇惑星の△△物質の性質を応用した技術なのであります!的なストーリーのこと。

...この話は冗談ですよ!そんな話はない!)

エルサは魔法によって心を閉ざして王位を放り投げるまで追い詰められたり、白雪姫の魔女やマレフィセント、アースラは逆に自らの魔法で自らを破滅に導いてしまうなど、魔法を持つもの自身の中で、魔法の占めるウェイトが大きいし、自分が翻弄されやすいという面をもつ。

しかしメリーポピンズは魔法は一つの道具、ぐらいにしか考えていないように見える。メリーポピンズがジェーンとマイケルに教えたいものの正体を魔法というレンズを通して教えるに過ぎない。あくまでも魔法は数多ある中の一つの手段である。お砂糖ひとさじで世界は変わる、お掃除みたいなお仕事だって遊びになる、ニペンスを鳩にあげる。絵の中に入ればスーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスというような「意味のない」言葉を唱えてみて楽しむ。今携える言語や文化がお互い違くてもそれを意図も簡単に乗り越え通じ合えたりするのをその言葉は教えてくれる。

銀行員たちであったりバンクス氏がジェーンとマイケルにそれらを無駄とあしらうが、「意味のない」ことや今まで目配せをしなかったことにこだわりや趣味が息づいたり、そこに情緒を見つけて人の交流が生まれたりする。それが生きることや社会という戦いにおいて大切な武器になる。訪れた家に自分の鏡、帽子かけを使うように、メリーポピンズはこだわりというものが大事であると教える。砂糖や鳩の中に、もしくはそれを見つめることに時代の変化に惑わされないものがあると。

バンクス氏や銀行は”たった”2ペンスで豹変した。銀行員は2ペンスから全ては始まると説いたが、銀行というメタファー、それが示すいわば“世の流れ”からすれば2ペンスや子供は彼らにとって貶すに等しい。自らの地位や信念が、例えれば、山から湧き出た水が海に向かう中で何も影響されず必ず曲がることなく一直線を貫く、などと信じ込んでいる故に、上下関係や損得の価値観を生み出し「無駄」や「小さい」を排除しようとする。そこにいつも吹いていた西風から東風が吹き、メリーポピンズが舞い降りる。風を選び世の中に惑わされない彼女が現れる。そして、“スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス”を知り、大人は変わってゆく。そうしてバンクス氏も銀行員も家族の愛を再確認する。その時2ペンスを訴える階段の老婆の愛が届く。女性への権利向上の襷を糸にして空に掲げ、家族で帆を見上げながら。

劇中ジェーンとマイケルはメリーポピンズの言葉を素直に受け入れてゆくが、それは大人に貶されてきた彼等の発する“電波”がメリーポピンズと共鳴しているからであって鵜呑みにしているとかではない。最初から2人は変わってないのだ。彼らは信念を持っているが、自らを過信していない。変わる必要がない。この映画では大人が変わってゆくのだ。2人は銀行で取られかけた2ペンスを自ら取り返したり、一方で自らを反省し、父のために2ペンスを渡す。そうした彼らの純潔なる行動によって、バンクス家は皆手を取りもう一度やり直して行こうと決意する。その姿を見ればジェーンもマイケルも、メリーポピンズなしに生きていけないだとか、魔法がなくちゃもう楽しくないだとか文句を垂れる状況にはもうなく、メリーポピンズから能動的に学んだことはわかる。魔法はスパイスであって、それだけになったら子供が破滅してしまう。それをメリーポピンズはよくわかっているからこそどこか魔法にこだわらない姿が映るのではないだろうか。

 

不思議な東風からいつもの西風に変わった時、

メリーポピンズは去る。不思議な時にしか、彼女は現れることができない。子供と接する彼女には彼らとの日常性というものがない。本当はいつまでも見守ってやりたい。親に変わりたい。それが、ナニー、乳母の悲哀とも言えるがでもそれはしない。それは、子供たちの慕う親がすることなのである。片親でも、里親でも。たくさんの子供たちにそうしてきた、というメリーポピンズの去り際の言葉の奥深さに心が揺れ動く。

ジェーンとマイケルが別れを言っていない、と傘は揶揄するが、メリーポピンズは別れを言うつもりはないのではないか。いつでも見守っている。彼女の言葉にしないメッセージと私は取る。そしてジェーンとマイケル、もしかするとバンクス夫妻、加えてバートも雲の上へメリーポピンズへの慕情をこれからも送ることになる。

愛は言葉にも乗るが、言葉でなくても

伝わってゆく。確かに感じた作品だった。

 

余談です。

映画の中で気になる人物がいる。アルバートおじさんである。笑っていればなんでも忘れられるという一方で悲しいことを思い出してしまえばやっぱり現実に引き戻される、という笑いに関する二面性を“浮かぶ”というユニークな手法で伝えるシーンが象徴的だ。なるほど面白い、と合点したが、しかし一方気になるのはアルバートおじさんは笑う他なくなってしまっているように映ったことだ。バートやメリーポピンズは“介抱しなければならない”人として扱っているようにも見える。彼は笑うか、しょんぼり悲しみにくれるかのどっちかになっているのかもしれない。どこか笑いが何かからの「逃げ」になってしまっているのではないか。銀行員がバンクス氏のジョークを聞いて、笑って浮かぶというシーンがあったが、彼は間も無く死をむかえる。浮かぶ人は生物的なのか、社会的なのかはわからないが、死というものが近いのかもしれない。アルバートおじさんが過去に何があったのか、世間において今どんな状況にあるのかはわからない。だけれど彼が生きがいのようなものを持っていたらな、と願ってしまった。それが笑いなのかもしれないが。

 

そしてもう一つ。

メリーポピンズは製作から何十年と経っているが、出演者の多くが今尚活躍している。ただ付け加えたいのがマイケル役、マシュウ=ガーバーさんがメリーポピンズに出演をした後一本の映画に出たのち俳優業を引退して、21歳でこの世を去っていたことである。病の先での夭折である。若くして亡くなってしまった方の命に本当に失礼であるが、同情したり、悲哀を投げかけて、死を美化してしまうことが、私の中にある。いつもその時に、彼らの日常を想像することにしている。息を吸う。空を見上げる。海を見渡す。行きたい所へゆく。話したい誰かと話す。喧嘩をする。仲直りする。家族と1日であったことを話す。食事をする。嬉しくなったり、悲しくなったり、怒ったり、楽しくなったり。そして好きなことをする。

映画の中の人も僕らと同じ日常を過ごしている。映画は日常の先にある。たとえ亡くなっても彼らは、僕らと一緒に生きている。メリーポピンズで描かれた子供の成長と家族の愛、そしてこれから続くであろうバンクス家の日常、それがマシュウ=ガーバーさんにもあったであろうと祈り、彼の演技が与えてくれたものと共に私はこれからも彼と一緒に生きようと思っている。

 

ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。よろしければ、みなさんのメリーポピンズに対する思いをコメント欄にお寄せください。どこのシーンが好きだとか、どのキャラが好きだとか、その程度で全然構いません。

みなさんの「こだわり」を通して意見交換をさせていただきたいと思っております。

重ねて、ご一読ありがとうございました。

 

 

 

 

“インターステラー”を見て

※ネタバレあり。

   映画を御覧になった方向けの内容です。

 

[今回紹介する映画]

 

インターステラー

        ≪Interstellar≫

 

監督 クリストファー=ノーラン

 

脚本 クリストファー=ノーラン

        ジョナサン=ノーラン

   

主な出演者 

・ジョセフ=クーパー 

        →マシュー=マコノヒー

アメリア=ブランド 

        →アン=ハサウェイ

・マーフィー・クーパー /

        →ジェシカ=チャステイン

            マッケンジー=フォイ

            エレン=バースティン

・トム・クーパー

        →ケイシー=アフレック

            ティモシー=シャラメ

 

 この映画のポスターの1つを見ると、父と娘らしき2人が空を見上げる様子が映されている。  

 

 僕らは俳優やCMやポスター、プロモーションの印象で映画館に赴く。見終わったあと、その印象を超えたか否かを確かめるのをしたりする。悪ければ無くした1800円を嘆くし、よければ自らのセンスに自惚れたりする。

 この映画は容易くその印象を超える。

 クリストファーノーラン監督の「ダークナイト」「インセプション」「メメント」などをあげても、彼の映画は見る前の印象の遥か上のエンディングへと我々を道連れにする。

 しかし、その見る前、見た後の印象が我々の映画に対する視線をある一定のところへ縛り付けてしまうことがある。

 最後クーパーは年老いた娘マーフと再会し、その後に、仲間を探しに宇宙船に乗るところで終わる。クリストファーノーラン監督特有のエンディング演出により、インターステラーのポスターの印象通り、映画が終わると、父と娘の物語、父と娘の愛の話にとれる。

 しかし、父と息子の話とも見ることができる。息子トムは大学進学をあえなく諦め、生きるためにトウモロコシ畑の中に職を置いた。父は宇宙へと旅立つ前、彼の大学進学を望んでいたし、そうしようと裏で働こうとしたのは、父の愛だといえるし、宇宙行きを否定もせず見送ったのは息子の愛である。父と娘に着目すると、その2人に映画は時間をかけているから、父と息子との間の愛を見抜きにくかった。でも父は息子を愛していたし、息子も父を愛していた。それは、宇宙船に送られてくるビデオメッセージでもよくわかる。彼は「父さんのことを諦めるよ」とビデオメッセージ言ったが、本当に諦めていたら、送りはしない。

 インターステラー(Interstellar)とは、「惑星間」という意味である。いわば宇宙空間の真空を指す。ダークマターブラックホールなどを物体とするかは分からないが、何もない、何も見えないところとも見える。

愛とは観測可能な何か、というセリフがあったが、五次元の世界同様、その正体は未だ未知として終わっている。何なのか、見えないものなのである。ただ、存在している。そんなものが父と子供の遠い距離を結いでいた。

トムの最後はわからない。もしかするとマーフの作り出したステーションに乗ったのかもしれないし、地球で最後を迎えたのかもしれない。

娘は科学を愛した父の面に見習い、地球脱出の方程式を見出した一方、息子は農夫としての父を見習い生きていた。存在が見えなくなったあとも2人とも父と歩んだ人生だったのだ。

 

 

余談だが、冒頭、クーパーの墜落の悪夢のシーンがある。制服がエンディングのものに似てないか?と考えると、最初と最後は繋がっているともとれる。クーパーの未来を地球にいるときからなぜか夢の中で予測していた、なんていいかたもできるし、クーパーはアンハサウェイを迎えにいくもう直前に迫っているという意味にとれる、つまり、視聴者に託されたアンハサウェイ救出に関する空白に対し、監督自らヒントを与えていることになる。まあ、これは、まだ未知の域を出ないが。

もう一つ、クーパーが五次元にたどり着いた時、TARSはクーパーが言っていないのに、マーフにモールス信号を送ったことを知っていた。よく知っているのを見れば五次元を呼び寄せたのはTARSではないか?と考える。理由はわからないが。そして、TARSを作ったのは人間である。五次元を呼び寄せたのは俺たちだというクーパーのセリフにもガッテンする。これもただの推測だ。